感じない女の告白―快感から遠く離れて


 森岡は告白する。自慰で起きる射精の快感は空しいと。そして自慰を超える「すごい快感」を女性に求め、その結果、「まだ感じていない→もっと感じたい」という環の中に囚われ、女性自身を無視して快感だけをむさぼる。その結果、やはり感じられない、という空しさに陥り、この感じられなさを、「感じている女性」への復讐に向けると。

 男性器に仮性包茎と真性包茎があるように、森岡のいう「感じない男」とは仮性不感症である。EDや性欲減退という真性不感症とは全く異なる。勃起し、射精できるし、快感も得られる。しかし、それは一時的で、持続的でないことに、森岡は不満だという。

 この告白は周りをギョッとさせるだろう。なにせ森岡は有名な生命倫理学の研究者であり、前著の『無痛文明論』は全国生協一位になるような売れっ子の作家で、こんなスキャンダラスな告白は全く持って必要ない。にもかかわらず、森岡をここまで書かせる、男の<仮性>不感症とはいったいどれだけポテンシャルを持っているのだろうか。ミクシーやアマゾンにもたくさんのレビューが寄せられている。この中で、私があえて感想をいうとするならば、私のセクシュアリティーを隠さずに書かざるおえない。(以上、私が今まで感想を書かなかった言い訳)

 ようやく自分でも、認められるから私も告白しよう。私は「感じない女」である。森岡はロリコンの危険性や、自分のロリコンの告白をしているが、私は既に中学からヤオイにどっぷりはまった(一部に言わせれば)変態である。森岡の思春期は、自分の体が変化していくことに対する違和感と気持ち悪さで「男の体から抜け出したい」という欲求が顕著になった時期だという。私は全く逆だった。むしろ自分の体が女になっていくのがおもしろくてしょうがなかった。「欲情されるために体」になっていくことは、性に対し冒険的な女にとっては興味の対象でしかない。それにもかかわらず、私の姿かたちや性格により、直接的に欲情を示されることはなかった。そこで私はガッカリした。私は「欲情される体」は持っているが、実際に性交渉の対象ではなかったのだ。そこから、私の「女の体から抜け出したい」という欲求は始まる。私は「欲情される」という受身では、誰も自分を求めてくれないことに不満だったのだ。代わりに、「欲情する体」つまり男になって、自分から誰かを求めたいと思ったのだ。

 しかし、実際にそんなことができるはずもなく、私は性的欲望をもてあます。そんな中で出会ったのがヤオイである。ヤオイとは、女性向の、男性同士の恋愛を描いたポルノである。あくまでも、ゲイに向けられたものではない。そこで行われるのは、「攻め」男と「受け」男という固定された支配関係の中での、レイプである。ヤオイでは常にレイプから恋愛が始まる。感じていない「受け」男が、「攻め」男に翻弄され…というのが典型例である。このヤオイで、よく指摘される事は、ポルノシーンが常に第三者の視点で描かれるという点である。男性向けポルノでは、男性を隠し、女性の体だけを描写したものも多い。しかし、ヤオイでは常に、「攻め」男と「受け」男の両方の体が描かれる。

 私が性的欲望を向けたのは、この俯瞰的なポルノである。欲情されつつ、欲情する。つまり、自己完結的に私はセックスを支配できるのだ。そこで私は「抵抗する男を犯す欲望」と「抵抗しながらも快楽を得る男」の両方の幻想を元に、自慰をする。そこには、実際の男はいない。私のイメージの中の男とは、射精が快楽を得たという合図であり、わかりやすい記号だった。それは射精できない自分への苛立ちの裏返しでもあった。自慰しても性液がでることがあっても、射精のようにドラマチックな場面もなくオーガズムにいたる。森岡は、女性に向けられるレイプは感じている女への復讐だという主張をするが、私はまさに感じている記号を持つ男への復讐として、男同士のレイプを好んで読んでいたといえる。男性向けポルノは女性差別だと言われるが、このヤオイはゲイへの差別を深く含んだポルノである。

 森岡は「ロリコン」や「制服少女」への言及もしているが、ヤオイにも同じ病理はみられる。基本的に「受け」男とは「ショタコン」(少年趣味)の延長線上にある。無垢な「少年」をヤオイでは「受け」男に負わせている。また、制服でも有名なジャンルがたくさんある。一番、象徴的なのは、ナチス青年隊を好んで描くジャンルだろうか。また、学生服、学ラン、男子寮、などもキーワードとしてヤオイには繁盛に登場する。

 一方で、私は男性向けのポルノには無関心であった。そんな私はヘテロセクシュアルとして、実際に男との性交に臨むことになる。相手の男性は<仮性>「感じない男」であり、その上暴力的だった。その結果、起こった事は、恋人間レイプである。この傷は私を酷く混乱させる事になる。勿論、暴力的な行為による肉体的なダメージはあったが、それ以上にセクシュアリティが犯される。私は、自分のセクシュアリティの揺らぎを止めるために性依存へと陥る。別の男性と性行為をすることによって、自分に行われたレイプを再演しようとした。そして、男性向けポルノを次々と読んだ。長く、私は自分が恋人にレイプされたということに気づかなかった。レイプが正常な性行為だと認識されたのだ。その認知の歪みはまだ続いている。私は<真性>「感じない女」になった。

 ここから、せめて<仮性>「感じない女」に復帰するまでのストーリーが展開できたら、どんなによかっただろう。私は、現在も<真性>「不感症」である。もうヤオイで自慰することすら快感を呼ばなくなった。上手く、自慰でオーガズムを得たとしても、同時に訪れるのはレイプされたときのフラッシュバックである。また、性依存も完治していない。自ら、自己破壊的なセックスや、マゾヒズム的な性癖ともとれるようなセックスを繰り返してしまう。

 森岡は、「すごい快感」を諦めて「やさしさ」に向かおうと呼びかける。私も「やさしさ」に向かう。それは、「すごい快感」を諦めた「やさしさ」ではない。全ての快感を諦めた「やさしさ」である。もう感じられないかもしれない、がその原因をレイプに求めるのではなく、紆余曲折した私のセクシュアリティの混乱の回復への諦めの「やさしさ」である。もしかすると、森岡はこの「やさしさ」とはセクシュアリティとの対決を先延ばしした、間違った「やさしさ」であると言うかもしれない。けれど。私にはもう「やさしさ」しか残されていない。

 実際の性行為である程度の快感を得る日はくるかもしれない。だが、そのためには、自分の「レイプ再演願望」と闘わなくてはならない。なぜ、辛かったはずのレイプを再演してしまうのか。それは多くの書物が解説している。あえて、私がもう一度自分のレイプ再演願望を解説するならば、「かわいそうだった自分の救済」としか言いようがない。私の場合、「レイプだった」と認識するまで長い時間がかかった。それゆえ、侵されている間に、私は自分が「かわいそうだ」と思い損ねたのだ。もう一度、自分を哀れみたいという自己愛ゆえに、私はレイプを再演しようとする。それで得られるのはフラッシュバックであり、新たな傷である。

 私がまた、ヤオイを愛読する日がくるならば、それは自分の救済のストーリーとしてのポルノだろう。性欲を求めるためではなく、犯された日々からの回復を綴ったポルノとしてのヤオイ。残念ながらそんなヤオイは非常に少ない。また、その回復のストーリーをどうして男女間ではなく、男性同士のセックスでしか求めることができないのだろう。

 全体を通してわかると思うが、私はまだレイプというPTSDの回復過程にある。だから、まだ、はっきりとした答えは出ていない。ただ、私は「やさしさ」に快楽をすりかえれば、もう少し自我が保てそうだということだ。



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